この文章は、「EUフィルムデーズ 2026」におけるエヴァ・ナテナ監督のギリシャ映画『マーダレス(Φόνισσα / The Murderess)』の上映を記念して、在日ギリシャ大使館と大妻女子大学比較文化学科が共催し2026年5月に大妻女子大学で開催された福田耕佑氏の特別講演の内容である。
EU Film Days 2026:ギリシャ映画『マーダレス』原作者パパディアマンディスがテーマの記念講演が東京で開催

<パパディアマンディス:彼の文学と作品>
1:序
みなさん、こんばんは。私は、岡山市にあります就実大学という私立大学に勤務しております、福田耕佑と申します。今日に至るまでニコス・カザンザキスの文学と思想を専門に研究してまいりましたが、ここ最近は二十世紀以降のコンスタンディヌポリ、或いはイスタンブルに出自の起源を有するギリシア人たちの文学を中心に研究したり翻訳したりしております。
さて、本日の私の発表では、渡邉顕彦先生の発表を受けてアレクサンドロス・パパディアマンディスの『女殺人者』(「マーダレス」)そのものについて、そして彼の文学について彼の他の短編の話しにも触れつつ簡単にお話しさせていただきます。
2:アレクサンドロス・パパディアマンディス(1851–1911)
まずは復習もかねて、私の方でも簡単にパパディアマンディスの生涯をお話しします。パパディアマンディスの経歴と事績を知ることは、彼の作品を理解する上で大いに利すると信じています。
今日の主役であるアレクサンドロス・パパディアマンディス(1851–1911)は、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて活躍したギリシアの作家であり、翻訳家としても活躍しました。一八五一年にエーゲ海のスキアトス島に生まれました。彼は、司祭であった父親や島の海と関わりの深い家系の中で育ち、幼い頃から宗教的な価値観と海辺の生活文化に強く影響を受けて成長しました。彼の出身地であるスキアトスという島の意味がちょうど「skia(影)+Athos(アトス)」で「アトスの影」という意味で、たまたまなのかもしれませんが、彼の出身地そのものからギリシアの国教である正教との深い繋がりが感じられます。
彼は幼少期から学業に適性を示していたのですが、家庭の経済的な事情によってたびたび中断を余儀なくされてしまいました。その後、各地で学びを重ねてアテネで大学の授業にも触れたのですが、結局のところ正式な学位を得られませんでした。ですが、独学で外国語を習得して海外文学を研究し、翻訳家や作家としての基礎を身につけたのでした。
彼の生活は生涯を通して貧しかったようで、新聞や雑誌への寄稿や翻訳によって生計を立てながら執筆を続けたそうです。一八八〇年代には歴史小説や冒険小説を書き始め、その初期の代表作には長編『移民の女性(Η Μετανάστις)』や渡邉先生が触れられた『ジプシーの娘(Η Γυφτοπούλα)』があります。一八九〇年代に入ると作風はより成熟していき、地方社会や庶民の暮らしを描く短編に重点を移しました。いわゆるヨルゴス・ヴィジノスらが属するとされる、近現代ギリシア文学史における一八八〇年世代の「風俗小説」的な作品ですね。ちなみに一八八〇年世代は「新アテネ派」と呼ばれることもありますが、作家たちはレアリズムに基づき、当時西欧で流行していた民俗学の影響を受け、ギリシアの地方と田舎の生活と習俗、素朴な田舎の人々に「ギリシアらしさ」があると信じてその特徴とメンタリティーを忠実に描写しました。この潮流の中心人物にヨルゴス・ヴィジノス、アンドレアス・カルカヴィツァス、そしてアレクサンドロス・パパディアマンディスがいました。
今日の私たちの主要なテーマである『女殺人者(Η Φόνισσα)』は一九〇三年に書かれた作品です。この作品についてこれから少々細かくお話しいたします。晩年は文学者として評価され、その功績を祝う催しも開かれもしましたが、結局生活は慎ましいままでした。結局彼は、生まれ育った島で一九一一年に生涯を閉じました。
3:パパディアマンディスの作品について
さて、この『女殺人者』は彼の傑作の一つだと考えられています。フリストス・ロマスというギリシア文学の研究者は、この作品にドストエフスキーの『罪と罰』の影響があることを指摘していますが、貧困や女性の抑圧を背景に、人間の罪と救済という重い主題を扱っていることから、私もこれは妥当な判断だと思っています。
この作品のあらすじを話すことよりもまず、この作品を理解する上で欠かせないのが「婚資」(προίκα)という昔のギリシアにあった制度です。これは、もちろん日本にもあったような結婚時の持参金ではあるのですが、昔のギリシア社会ではかなり社会制度として強い意味を持っていました。この「婚資」では、娘の家族が花婿側に対して娘とともに財産を渡しました。現金だけではなく、土地、家、家畜、織物、衣類、家具、生活用品など様々なものが贈られました。特に農村や島嶼部では、娘が結婚後に生活できる基盤として土地や家屋が重要でしたが、娘が多い家では婚資準備のために借金を抱えるになり、女児の誕生が経済的不安と結びつくこともありました。これは、主人公のフランゴ・ヤヌに女児を殺させていくほどの性と家族に与える社会的圧力だったのです。私はこの映画を現地ですぐに見に行きましたが、あのΠάλι Κόρη(また女の子だ)という、誕生というあんなにも嬉しい瞬間に言われた悲しい言葉が今でも忘れられません。
あらすじですが、主人公はフランゴ・ヤヌという年齢を重ねた女性で、貧しい家庭や女性たちの苦しい生活を長年見続け、自身もまた厳しい人生を送ってきました。物語は、この主人公が家族や村人たちと関わり、島の中を巡り歩いて人生や社会のあり方について思いめぐらせていく形で進みます。タイトルは『殺人者』や『女殺人者』ですが、先ほど挙げた「婚資」προίκαの故に、これらから婚資に苦しめられることになる少女の人生を哀れに思い、手にかけていくことになるのですが……
著者は、作者の子供時代の記憶にインスピレーションを受け、「自分たちの島」という小さな箱庭からあたかも直接飛び出してきたかのような登場人物たちを作り上げました。私はそう思っています。そして彼自身の人生がそうだったからなのでしょうか、彼は貧しく虐げられた人々をただ自分の社会的な主張を声高に主張するための道具として用いたりレアリスト作家としての名声を得るための犠牲として用いたりはせず、同じ惨めな境遇を味わっている人々に対する同情と思いやりをもって描きました。こういった彼の出自と人生こそが、『女殺人者』という物語にレアリティと読者を引き込んできく力を与えているのだと私は思います。先ほども触れましたが、彼の作品はその当時の農村や島の生活や素朴な人々を克明に描いたが故に「風俗小説」と言われていますが、私は、彼の作品の価値は、当時のギリシアの自然や海辺の風景描写、そして当時の人々の宗教観や習慣を描いたが故にそのレアリティに史料として価値があることを否定しませんが、それ以上にこの風俗的側面の下には深い心理描写と社会観察が隠されていると考えています。
この『女殺人者』には横山潤さんという方の翻訳により2010年に刊行された日本語訳がありますが、私もパパディアマンディスの『降誕祭短編集』より「キリスト・パン」(Χριστόψωμο)という本当に短い短編を翻訳したことがあります。なぜこの短編を訳したのかと言われると、ギリシアで留学していた時にクリスマスに作られていた「キリスト・パン」という習慣を知り、それでこの短編を知ったからです。物語のプロットは書いてみれば極めて単純です。簡単に言うと、姑さんとその息子、そしてその奥さんが主要な登場人物で、姑さんと奥さんはとても仲が悪いんですね。物語自体は『女殺人者』のように素朴な人々の暮らしと心理、当時の時代の宗教的な習俗や生活を活き活きと描いていくのですが、結論から言うと、姑さんはクリスマスにこちらの奥さんを亡きものしようと毒入りの「キリスト・パン」を作るのですが、なんと間違って自分の息子が食べてしまう、というオチです。これだけ聞くとなんだ、ありきたりな昔話のようなつまらない話だとお思いになられるかもしれません。ですが、当時の人々の生活のリズム感、とりわけ日常生活の中での教会との関りなどは極めて鮮やかな書きぶりですし、後でまたもう一度述べますが、教育を十分に受けていないであろう地方の人々の生態がほんとうによく伝わってきます。ですが、やはりこの短編も単なる史料や「風俗小説」を越えて人々の深い心理描写があり、『女殺人者』に社会や制度、そして人々を縛っていた悪習に対する鋭い批判の目が注がれていたように、人や社会の行いに対する彼なりの評価や判断というものが反映されています。
確かにこの作品のプロットは、悪いことを企んだ人が悪い目に遭うという勧善懲悪で、この作品の場所的な中心が家庭と教会であったことから考えてもこれは当然のことのようにも思います。つまり、そこで与えられた罰は、昔話やお伽噺のような「悪い姑の息子が姑の狡知によって亡くなる」というつまらないものです。ですが、この田舎の家庭と教会という小さな小さな世界で展開されたお話に、劇的な罪が下るとすれば、それこそ興醒めではないでしょうか?ここに描かれるのは「何でもない人たちによる」「世界のどこかの小さな小さな世界の小さな不幸」です。彼の作家としての天分は、自分を養った土壌を共有する目の前の「この」人々を愛情をこめて丁寧に描くことで、私たち令和に生きる日本人にも自分を、そして自分たちの社会を考えさせる力を与えたということにあるのではないでしょうか。忘れないでいただきたいのが、『女殺人者』で展開されたのも彼だからこそ豊かな命を吹き込むことのできた「何でもない人たちによる」「世界のどこかの小さな小さな世界の小さな不幸」でした。だからこそ、「婚資」が大きな意味をもって作品の中で機能したのでしょう。なぜなら、金持ちや先進的(?)な人々の婚資だったとしたら、この作品に受けたほどの衝撃を私たちが受けることはなかったでしょう。
4:おわりに
先ほど、「この」人々を愛情をこめて丁寧に描いたと私は言いました。『女殺人者』でも『キリスト・パン』でもそうですが、パパディアマンディスは十分な教育を受けず、おそらくは自分の生きる環境の外をほとんど知ることのなかった人々に軽蔑の眼差しを向けることはなかったように私は思います。レアリズムと言われるように丁寧に忠実に描きました。ですから、彼の作り出した人々に豊かな命が吹き込まれました。彼は、おそらくですが自身が貧しい生活を送ったように、貧しい人々や虐げられた人々に慈しみの目を向け、彼らの有する矮小さを馬鹿にすることはなく、個人の問題を描くことを通して社会の問題や人間そのもののが有する醜さを糾弾しました。スキアトス島というレンズを通して人間と社会という宇宙を見通した人だったのでしょう、私はそう結論付けます。
私は、この映画「マーダレス」が放映されたその週のうちにこの映画をギリシアのテッサロニキで見ました。美しいポスターに目を惹かれました。そうそう、映像技術のことや時代考証のことはここでは申し上げません。ただただ美しかったです。それで、ポスターが至るところに貼られていましたので、すぐに存在にきがつきました。映画館ではもちろん外国人はみたところ私と妻しかおらず、他のお客さんはほとんが年配の女性だったように記憶しています。婚資のあった時代を生きた方々だったのでしょうか?私にはわかりません。しかし、「婚資」はなくなっても、「婚資」に限らずとも、人間という存在やその人間で形成される社会の「業」というべきものは変わりません。この映画は、百年以上前に書かれた作品の「業」を現代によみがえらせてくれました。時と時間を越え、私たちに多くの示唆を与えてくれます。ともに味わっていければと存じます。
私からは以上です。ご清聴いただきありがとうございました。